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仁木拓人

「雑草魂」

· 男子プレイヤー

小さい頃のテニスに明確な目標はなく、勝ち上がれるところまで楽しく上がっていければいいやと思ってやってたと言います。それでもいつしかグランドスラムを明確な目標とし、ベテランと呼ばれる30歳の現在も、その思いが衰えることはないどころか、より現実的な可能性として捉えているようです。

今回お話を聞くのは、仁木拓人選手です。

仁木拓人選手

(三菱電機所属)

Tennis Tribe.JP(TT):「ようやくお会いできました!ご活躍をメディアで拝見していたので、こうやって直接お会いできるのは不思議な感じです。今日はよろしくお願いします。」

仁木拓人選手(仁木):「こちらこそ、よろしくお願いします!」

テニスは週2

TT:「早速ですが、10歳からテニスを始めたとのことですが、随分遅いスタートでしたね。」

仁木:「10歳というのは大会に出始めてテニスが本格的になった時で、コートで遊んでいた頃から数えれば、3歳からになります。父の仕事でサンディエゴに住んでいたのですが、両親が趣味で勤務先の仲間とテニスをするのについて行って、ラリーをしてもらっていたのが始まりだったと聞いています。小学校時代には一人で壁打ちをして、その後に混ぜて練習してもらっていました。」

(父親の赴任先、サンディエゴで)

TT:「お父さんの仲間と混じってのテニスとは、微笑ましいです。」

 

仁木:「その後日本に帰ってきましたが、テニスは楽しくて、両親の知人から一生懸命やりたいならとNJテニスクラブ(茨城県つくば市)を紹介されて、1時間半の練習を週2回のペースで始めました。」

(テニスの楽しさに、すぐに魅せられた)

TT:「大会に出始めたのは10歳とのことでしたが、週2から本格的な練習に切り替えて行ったのはいつ頃からでしょうか?」

仁木:「いえ、1時間半・週2回はその後もずっとそうで、中学卒業までNJでやっていたのでそのペースの練習でした。」

TT:「ジュニア時代のがむしゃらに練習をする頃に、週たったの2回?」

 

仁木:「そうなんです。後からの話になると思いますが、全国の選手と話をするうちに、みんな毎日、しかも何時間もやってるって知って、自分の練習量が何分の1だったことに初めて気が付きました。でも、当時は週2回が僕にとってはテニスをやるペースだったので、疑いもなくそんなものだと思っていたんですよね(笑)」

(NJテニスクラブでは、週2回の練習、それでもメキメキと上達)

TT:「おそらく今までお会いしてきた男子選手で最少の練習量です!」

スコアのつけ方も知らぬ10歳が、12歳では全国レベル

TT:「さて、10歳で初めて大会に出たときのことは覚えていますか?」

仁木:「はい覚えてます。県の大会で、参加者で最下位でした。スコアの付け方を僕も相手選手もまともに知らないまま試合を始めて、終いには両方の両親が入ってきてスコアを付け始めたのをよく覚えてます(笑)」

TT:「スコアも分からず試合に出ようとは、なんとも長閑な(笑)その後、頭角を表してきたのはどのあたりになりますか?」

仁木:「小5の県の小学生予選ですね。それが初めての優勝で、関東に出ました。こてんぱんに吹っ飛ばされましたけどね(汗)その後は小6で全小に出ることができて、ベスト16までいきました。その頃にコーチの勧めで、NJの他に、筑波大学の学生さんに週1で2時間大学の外のコートで練習をつけてもらって、ごく稀にですが大学の部活にも参加させていただいていました。」

(予選で「こてんぱんに吹っ飛ばされた」翌年、全小ベスト16)

テニスに目標などなかった

TT:「それでもまだ週3ですね。」

仁木:「この頃ですね、全国の他の選手たちの練習量を聞いてビックリしたのは。でも僕の当時のテニスは全国のトップになりたいとかは全く思っていなくて、県でも関東でも全国でも、どこまでいけるのかな〜って感じでした。特に目標もなくて、勝ち上がっていくのを楽しんでいましたね。」

TT:「いつ頃からテニスに具体的な目標を持つようになったのでしょう?」

 

仁木:「中1で出た関東で、中3の相手に06 06か06 16だったかでボコボコに吹っ飛ばされた事があって、この時に初めて『もう少し頑張りたい』と思ったのを覚えています。その後、中2は関東U14でベスト4、全国でベスト16に行ったときに、コーチから初めて『上手くなったね』とか『勝てるようになったね』と言われるようになって、もっと勝ち上がっていきたい意識が強くなった気がします。中3では関東で優勝して、全国ではベスト8。この時にははっきりと『勝ち(優勝)たかった』と思っていたので、ここで少しは目標を持つようになっていたと思います。」

(コーチの「上手くなったね」の一言から、「優勝」という目標を得た中学時代)

TT:「全国のトップレベルに名前が出てきたわけですから、高校は強豪校からの誘いもあったんじゃないでしょうか?」

 

仁木:「はい、スカウトがあったのは事実です。でも僕自身が高校生活でテニスに全てを賭けるということが頭にあまりありませんでしたし、両親も受験して進学して欲しいと言っていましたので、中3からは週2で塾に通っていましたし、8月から受験が終わるまではテニスは週1回の練習に落として勉強に時間を割いていました。結果的に志望校で県内のテニスでは強い方だった県立竹園高校に入学して、高校の部活と筑波大の学生との練習を並行でやるようになりました。」

(茨城県立竹園高校のチーム)

TT:「高校進学後の戦績を確認しますと、高2で全国から名前が消えてしまっています。」

 

仁木:「中学時代は県内で負けることは少なかったんですが、高校に入ると県内でも食い付かれるようになってきていたんです。竹園は県内では強い方とはいえ、全国レベルでは強豪校でもなんでもなくて、練習が厳しいということもありませんでした。僕はトレーニングも嫌いで、単に球を好きなように打っていただだけで、自分でも上手くなっている感じはなくなっていました。筑波大学で教わっていたコーチは普段から厳しく叱ったりするような方じゃなかったんですが、ある日僕の練習態度が目に余ったんでしょうね、初めて『やる気なかったら、今終わる?』って言われてしまったんです。そこで気が付いたんです、怠けすぎじゃないかって。高2で全日本ジュニアに出られなかった時がこの時でした。」

テニス、そしてプロへの賭け

TT:「コーチのたった一言で気づかされたんですね。」

(インターハイ出場当時のニュース記事)

仁木:「その時から、自分で考えて、嫌いだったトレーニングとかやるべきことをやるようになりました。全日本ジュニアかインターハイでの優勝を具体的な目標にしました。でも結果はベスト8。今までにない、目標に到達しない悔しさを感じましたし、改めて高2〜高3でもっと頑張らないとならなかったし、今までやってきたことじゃ全然足りないと痛感しました。話は脱線しますけど、この春に高校を卒業した若い世代の選手は僕より一回り下ですが、あの年でしっかりトレーニングとかやらなければならないことをしっかり積んで来ていて、関心します。彼らに比べると当時の僕は本当に練習量も少なかったし、テニスに対して怠けていたなって思いますね。」

TT:「この辺りでプロを意識していたのでしょうか?」

仁木:「そうですね、意識がなかったわけではありません。でもまだ僕にとって『プロ』は、小さい頃から憧れはあってもそれは幼い頃テレビで見た、日本人で大きな舞台で活躍されていた伊達(公子)さんであり、アガシやモヤ、クエルテンのかっこいいプレーだったり、ヒンギスの天才的なドロップショットとか、テレビの中でやってる人というものでした。高2の終わりの全国選抜で決勝に残ったんですが、優勝者に与えられるUSオープンジュニア予選のワイルドカードを優勝者が辞退して僕に切符が回って来たんです。初めての海外でのテニスで、グランドスラム選手を目の当たりにして、『ヤバイ』『スゴイ』『速い』しか出て来ませんでした(笑)。『プロすげー!』と思って、でも、ここでできたらかっこいいなって思いましたから、この辺りからはプロを意識するようになりました。」

(再びコーチの一言で目覚め、初めての海外への切符も手にする)

TT:「となると、次の進路は大学かプロかを迷ったんじゃないでしょうか?」

 

仁木:「高3のときにはテニスを極めたいと思うようにはなっていて、その延長線上としてプロは考えはしました。そこで進路を整理して、3つの方向性があると思っていました。1つ目が高卒でのプロ。これは戦績も覚悟もないので最初に消えました。2つ目がテニスの強豪大学に進学すること。3つ目は神戸に教えていただきたいコーチがいたのでそこでテニスをしながら大学にも通うという考えです。この2つでかなり迷いましたが、強豪大学の部活はきっと自分には消化できないだろうと考えて、結局3つ目の選択肢で立命館大学に進学して、神戸のコーチの元で練習をする方向にして、プロは大学を卒業して準備ができていたらなろうと思いました。」

(大学も学業とテニスの両立の上で、プロを目指す進路をとる)

20歳にして試合の仕方を教わる

TT:「現在はラボ(みんなのテニス研究所、神戸)で練習されているようですね。」

仁木:「はい。20歳でテニスに少し行き詰まってしまっていた時に、ラボを紹介されました。練習で『ここにサーブ打ったら、こう返ってくるよね・・』と言われて、『え?そうなんですか?』って言ったら、『そこから??』って(笑)。それまで試合では打ちたいところに打って、好き勝手にやっていたんですね。試合の仕方を一から教えてもらってから、もう10年ずっとラボにお世話になっています。」

(試合の仕方を一から教えてもらった、「ラボ」の仲間たち)

TT:「大学を卒業後の2010年4月にプロ転向を果たして、その年の全日本選手権ではシングルスベスト4、ダブルス準優勝と大躍進でした。」

 

仁木:「ラボで言われたことを必死にやっていたら、勝ち上がることができました。この年は(鈴木)貴男選手と対戦する日の朝にセンターコートで30分の練習をしたんですが、人がいっぱい入っている中での練習は初めてでしたので、緊張しましたね〜(笑)」

(もう一つの拠り所、三菱電機の仲間たち)

不足を取り戻すプロ生活、そして夢の舞台を視野に

TT:「プロ最初の数年間を振り返るといかがでしたか?」

仁木:「とにかく必死に目の前の試合に勝ちたい一心でやっていました。僕は才能のある方じゃないので、特に試合会場では普段練習や試合をしない人との練習を数多くこなしたいと思っていましたし、ジュニア時代に不足していた練習をここで積み重ねないとならないと思って、必死に食らいついてやってました。」

TT:「その甲斐あって、2014年には300位台まで登ります。」

 

仁木:「グランドスラムが見えてきたので、大会をフューチャーズからチャレンジャーに上げて出始めました。でもボッコボコにされてしまいましたね(笑)」

(帯同してくれる井本コーチと。納得いくまでじっくりとアドバイスをもらう。)

TT:「その後、フューチャーズでの優勝、チャレンジャーの挑戦、2015年にはジャパンオープン(ATP500)予選も経験されて300位台をキープする中で、2017年の春に再び280位までランクを上げて行きます。」

仁木:「3年振りにグランドスラムが見えてきて、しかもこのランクならフューチャーズとチャレンジャーであと数試合いい結果を出せばUSオープンの予選に間に合うと思いました。そして同時に、攻撃力もアップしないとグランドスラムでは戦えないという思いに駆られて、もっとパワーで押し切るような試合でUSオープンまで(アクセルを)踏み続けていたと思います。しまいには勝ちたい思いも強く出過ぎて自分をコントロールできなくなってしまって、頭を使って試合をするバランスも失って、結局ランクを落とす結果になってしまいました。」

(2017年の最終ランクは466位に沈む)

TT:「さて最後になります。ベテランと呼ばれる年齢となりましたが、今後の目標を改めて教えてください。」

 

仁木:「30歳になって、確かにベテランと呼ばれていい年です。でも年齢は単に数ですから、年齢で自分にリミットをつける必要はないと思っています。高3の時に見たグランドスラムへの思いはまだまだ残っていますし、グランドスラムの目標は変わりません!」

サインと一言をいただきました。

「雑草魂」は、尊敬するプロ野球の上原浩治投手の座右の銘。

上原投手もジュニア時代は決してエリート街道を歩んできたわけではないことを自身に重ねての一言です。

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写真提供:

三菱電機株式会社

仁木拓人選手

ご協力ありがとうございました。

聞き手:Tennis Tribe.JP 新免泰幸

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