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西村佳奈美

「ママにエールを

子供に夢を!!」

· Players

プロテニスプレイヤー、西村佳奈美。

いったい誰??と思う一方で、どこか覚えがある人はいるのではないでしょうか。

では、旧姓は辻といえばどうでしょうか。辻佳奈美といえば、日本のテニスファンには知られた名前かもしれません。

インタビューの前に彼女の選手としての略歴を紹介しておきます。
1996年生まれの現在22歳。


小学5年生から全国レベルで頭角を現し、国内大会では年齢クラスを1つ上げて出場し、12歳で全日本選手権U14を優勝。
全豪ジュニアベスト16、ヨーロッパのジュニア登竜門ヤングスター大会やITFジュニア大会でも多くの優勝を飾り、2010年にはヨーロッパのオレンジボールと呼ばれるジュニアナンバー1を決める大会Les Petis As (小さなチャンピオン)で見事優勝。
その勢いのまま弱冠14歳で日本テニス協会からプロテニスプレイヤーとして認められた、最年少転向のプロテニスプレイヤー(2018年2月現在)。
しかしそのプロ活動は、ITFシングルス優勝とキャリアハイの500位台をマークした2015年、19歳で突然ピリオドを打つことを余儀なくされました。


丸2年を経た2018年1月24日、22歳の誕生日に、プロテニス選手西村佳奈美として再始動を宣言しました。
 

しかも、ママになって!

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Tennis Tribe.JP(TT):「今日は練習から拝見しましたが、ベビーカーで息子さんもコートに連れての練習は微笑ましい光景でした。久しぶりのテニスコートはどうですか?」
 

西村佳奈美(西村):「練習始めて2週くらいですが、この光景が懐かしく思う半面、息子を連れての練習に新鮮さを覚えます(笑)」

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(練習コートでは愛息が見守る(寝てる?))

TT:「早速ですが、テニスのスタートから教えてくださいますか。」
 

西村:「はい、3つ上の兄の影響で4歳からテニスを始めました。その兄は父親の指導でテニスを始めて、私もその中で始めました。」
 

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TT:「お父さんはテニスのコーチか愛好家だったのですね?」
 

西村:「いえ、全くテニスの経験なしです。それでもテニス雑誌で教え方を勉強して教えてました。毎日コートを借りて、兄と私だけで練習するときもありましたけど、父親と私だけの時はコートにテニスマシンを置いて、その球出しを打つ後ろから指導されてました。」
 

TT:「テニススクールとかクラブには行かず、小さい頃はずっとお父さんの指導でやってきたわけですね。」
 

西村:「スクールには一度行きましたけど、レベルが合わなかったので2−3ヶ月でやめちゃいました。」
 

TT:「ウェブサイトによると、『幼少期より父の英才教育を受け』とあります。どんな生活でしたか?」
 

西村:「テニス以外にも色々なスポーツをやりました。ジャズダンスとか、ミニバスケ、水泳。空手もやりましたけど、これもすべてテニスのための基礎トレーニングとしてでした。登校前に素振りとランニングをして、放課後は夜9時までひたすらテニス漬けでした。英才教育というより、スパルタ教育と言っていいくらいに厳しい練習でした。」
 

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TT:「小学校時代には小5で頭角を現したようです。」
 

西村:「小学校5年生で全小と選抜、RSKの全国大会に補欠でした。繰り上がりもあるので全部会場に行きましたけど、どれも出られませんでした。」
 

TT:「小5で全日本選手権U14の2回戦に出場していますよ。」
 

西村:「あっ、そうですね。ジュニア時代の試合ってほとんど覚えてないんです。。」
 

TT:「全日本ジュニアを調べてみますと、11歳でU14の2回戦、12歳でU14を優勝、13歳でU16のベスト4です。ひとつ上のクラスに出で続けています。」
 

西村:「はい、それは父親の方針で、レベルを上げて挑戦するようにしていました。その頃は週末毎に大阪から藤沢の荏原SSCに通ったり、学校を休んで2ヶ月間プロのコーチ帯同でヨーロッパ遠征して、ヤングスターにも出たりしてました。」
 

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(国内大会では年齢クラスを一つ上げて戦った)

TT:「ヤングスターといえばヨーロッパジュニアの登竜門ですが、そこに12歳で出場して優勝とのこと。」
 

西村:「ヨーロッパの大会は全部クレーコートで、打っても打ってもラリーが繋がるので、ゲームの組み立てや展開を考えてどうしたら勝てるのかを学んだ遠征でした。だんだん思い出してきましたけど、たしかこの遠征の後に全日本ジュニア(2008年U14)に勝ったんですよね。あの時は、学んだ事が出来ていたので負ける気がしないくらいに自信がありました。」
 

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TT:「それを裏付けるように、優勝まで全てストレート、準決勝61 64、決勝61 62と圧勝です。2つ上の年代とやっていることも含めて、いかに国内では早熟な選手だったかが分かります。その後、ジュニア時代のハイライトになるフランスのLes Petis Asの戦いを教えてください。」

(Les Petis Asは前述の通りヨーロッパにおけるトップジュニアのナンバーワンを決めると言っていい大会。過去の優勝者には、男子で1986年のマイケル・チャン、2000年のラファエル・ナダル、最近では米国の新鋭フランシス・ティアフォーが2012年、女子では1991年と1992年にマルチ・ヒンギス、1997年にキム・クライステルス、2010年の辻佳奈美の翌年には2017年全仏を制したエレナ・オスタペンコが名を連ねる。)

西村:「初めて(13歳で)Les Petis Asに出た時には、1回戦でボコボコにされ、やっぱり世界は甘くないんだなと思いました。次の年は決勝までは相手のレベルが上がっていく中で自分のレベルもどんどん上がって行く感覚がありました。決勝のファイナルセットは2-4まで持って行かれてしまったのですが挽回できると信じ、最終的に4ゲーム連取で勝ち切った(46 63 64)試合でした。」

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(Les Petis Asの優勝は、世界のトップジュニアの証明)

TT:「プロへの意識と、実際に14歳という年齢でプロになるに至った経緯を教えてください。」
 

西村:「自分自身でプロを意識したのはヨーロッパを周っていた小学校5・6年の頃だと思いますが、親からはプロになるものだと小さい頃から言われていたと思います。」
 

TT:「それにしても14歳でプロへの転向は随分早い。ご自身の希望で?」
 

西村:「いいえ、プロになれば賞金が手に入るとの父親の考えです。実際に、プロのコーチをつけたり長期の海外遠征に行ったり、金銭的に相当かかっていたと思いますし、それはプロになってもそれは続けなければなりません。兄が行きたい大学を諦めて、テニスで学費免除になる道を選んだのは、私にかかるお金があまりにも大きいからだったそうです。そんな時にヨーロッパのマネージメント会社BESTからのお話があって、でもBESTはアマチュアとは契約しない条件だったこともあって、プロ転向を決めたようです。」
 

TT:「その年齢でのプロ決断は決してご自身で進んで選んだ道ではないようですね。。」
 

西村:「心の準備なんてないままでした。それでもテレビ取材を受けたりしている中で、プロになったことを受け入れて行きました。」

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TT:「2010年でプロ転向をしたわけですが、その後もジュニアの試合を2014年まで出ている記録があります。」
 

西村:「これも父の方針で、グランドスラムを目指すならジュニアでもその経験をしておくべきだという考えです。私はシニアとジュニアをミックスするのは嫌だったんですが、選手として活動している私の意見はまったく受け入れてもらえず、家に帰れば父とケンカする毎日でした。それでも、資金援助をしてくれているのは父親ですし、最後は従っていました。」

(2011年全豪・全仏ジュニア、2012年全豪、ウィンブルドンと全米はケガで欠場、2014年全豪に出場、2011年全豪ではベスト16をマーク)

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(全仏ジュニアで、ムラデノビッチと)

TT:「プロになってからのお話を伺いたいと思います。大会結果を確認しますと、2年目の2011年にはITF1万ドルでベスト8とベスト4、翌年にもベスト4が一度と成績がつき始めますが、2013年に3試合連続のリタイヤもあったり、ランクも下がったりで、停滞しているようにも見えます。」
 

西村:「ん〜本当に試合のことを覚えていないんですよね。その頃たしか足首を疲労骨折したのがクセになっていたので、それでリタイヤしたのかもしれないです。何よりもテニスを嫌々やっていた頃でした。私にとってその頃のテニスは毎日怒られないようにするためだけのものだったんです。いつも、泣きそうな顔をしてテニスをしてるねと、よく周りから言われていたのを覚えています。」

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(テニスをする彼女に笑顔はなかった)

TT:「そんな中、2014年から成績が大きく出てきてランキングも一気に上がってきました。」
(2014年に1万ドルでベスト8が2回、ベスト4が2回、準優勝1回、2015年にはジャカルタで優勝)
 

西村:「2014年のヨーロッパ遠征中に、江原くん(弘泰選手)が拠点にしていたスイスに誘ってくれたんです。1年半くらいそこでやって、テニスがとてもいい感じになっていましたので、結果がついてきてたんだと思います。」
 

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(スイスでは自分を取り戻していくが・・)

TT:「テニスの記憶がほとんどないということなのですが、それでも何か思い出に残っていることはありますか?」
 

西村:「ありますよ。スリランカの大会で泊まっていたホテルで自爆テロがありました!」
 

TT:「まさか!」
 

西村:「本当です。試合の前日にロビーに貼ってあるオーダオブプレーを見ていたら、建物のどこかで『ドンっ』てなって停電したんです。すぐにホテルに誘導されて避難して、あとから聞いたらテロだったって。部屋に戻ったらガラスが割れていました。」
 

TT:「いい思い出じゃないですね・・」
 

西村:「もうひとつ思い出しました。モロッコの大会に参加していて、ランニングをしていた仲間の選手が刃物をもった人に襲われて刺されました。」
 

TT:「刺されましたって、そりゃ事件じゃないですか(怒)そんな思い出ばっかり?!」
 

西村:「はい(笑)」

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TT:「先ほどの話で、テニスの調子は上向きで、2015年の9月にはITFでシングルス優勝も飾ってこれからと思われた11月の東京の10万ドル大会を最後にぱったりと試合の記録が途絶えます。」
 

西村:「父親のテニスに対する厳しい姿勢が周りからも避けられるようになってしまって、コーチ、用具メーカー、スポンサーも全て離れて行って、最後は練習相手もいない状態になってしまって、テニスをやれる状態ではなくなり辞めざるを得ませんでした。」

TT:「その時19歳。その年齢からプロになる選手もいる中で・・。差し支えなければ、その後の話を聞かせてくれますか?」
 

西村:「その後は、父と距離を置き祖父母の家に住み始めました。テニスはきっぱりやめて、やりたかったことを全部やろうと決めました。先ずは免許をとって、それからハンバーガーショップの店員や百貨店、ホテルなどのアルバイトもしてみて1日10何時間も掛け持ちでやったりました(笑)この期間はテニスしかしてこなかった自分にとっては学ぶことも多くて、とても楽しい時間でした。でも、いつまでも祖父母に迷惑をかけられないし、実家のある大阪からも離れたいとの思いで、東京に引っ越すことに決めました。この二年間はテニスを離れ、アルバイトも経験し、夫と出会い、ママにもなりました(笑)」

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(テニスでやり残したことを全部やろうと)

TT:「プロテニス選手として再起するに当たっての思いを聞かせてください。」
 

西村:「これまで辛いテニスしかして来ませんでしたし、泣き出しそうな顔ばかりの試合をしていました。今度のテニス人生は息子にテニスをやっている姿を見せたい、日本で初めてのママテニス選手としてグランドスラム出場を目指したい、そして世界中の頑張ってるママさんを勇気付けられるような選手になりたいです。」
 

TT:「そして、笑顔でのプレーですね。」
 

西村:「はい、そうですね。今はテニスが大好きですし、テニスを楽しんで笑顔でプレーしている姿も見てもらいたいです。」

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写真提供:西村佳奈美選手

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聞き手:Tennis Tribe.JP 新免泰幸

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