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田沼諒太

「準備万端」

· 男子プレイヤー

初めてプレーを見た時から、元気よく全身でプレーする選手だなと思い、お話の機会をうかがっていましたが、なかなか実現せず。

その後ITFサーキットで初優勝を飾ってランキングも500位台に急上昇する彼に、ようやく成田のホームコート「楠クラブテニスアカデミー」でお会いできました。

田沼諒太選手を取り上げます。

田沼諒太選手

(ワールド航空サービス所属)

TennisTribe.JP(TT):「ここは緑に囲まれたいい環境ですね。」

田沼諒太選手(田沼):「そうですね、虫が多いですけど(笑)」

TT:「はい、すでに2箇所刺されました(笑)今日はよろしくお願いします。」

塾に行くくらいだったらテニスでも・・

TT:「まず最初に、テニスの開始年齢が10歳とあります。他の選手に比べると随分遅いスタートになりますね。」

田沼:「父親のテニスについて行って小1の頃から少しはやったことありましたけど、ちゃんとやり始めたのは10歳からになります。」

TT:「お父さんのテニスを見ていたら自分でもやりたくなった、というところでしょうか?」

(将来の夢は、野球の選手)

田沼:「いえ、小1からずっと野球をやっていて、将来は野球の選手になりたいって思ってたくらいでしたので、テニスは父親に誘われるままに始めました。小さい頃から体を動かすことが大好きで、塾とか習い事に行くくらいだったら体を動かしたかったので、週末の野球に加えて平日にテニススクールに通うようになりました。」

TT:「野球はいつ頃までやっていたんですか?」

田沼:「小6までです。テニスはボールを打つのが楽しかったですし、上達するたびにもっと楽しくなってきて、小6からはテニス一本に絞るようになりました。」

(上達するたび、テニスにのめり込んで行く)

TT:「そんな頃のテニスの思い出って何が残ってますか?」

田沼:「始めたのが遅かったので、試合をしても勝てませんでしたね。いつも0-6とか1-6とかで同年代に負けてました。練習試合なのに負けると悔しくて、しょっちゅう泣いてました。一度は女の子相手に3-0から3-2に追いつかれただけで泣いたりして(笑)」

TT:「あはは、泣き虫だったんだ。今でも泣いちゃう方??(笑)」

田沼:「いや、さすがにもう・・でもこないだシングルスで初優勝した時には、ちょっとウルっとしちゃいました(笑)」

TT:「大会に出始めたのはいつ頃からですか?」

田沼:「テニスを習い始めてすぐに出ました。初めての大会は一回戦負けだったと思います。確か神奈川県ジュニアだったかな。負けて泣いてました。」

TT:「やっぱり・・(笑)初めて大会で手応えを感じたのはいつ頃になりますか?」

田沼:「小6の県ジュニアではシングルスベスト4、ダブルスで優勝したので、それが初めて成績が残ったと言える大会だと思います。それとシングルスの準決勝は、コートに出たらズボンを後ろ前に履いているのに気がついて、コートで脱いで履き直したのを覚えてます!」

TT:「ははは!記録にも記憶にも残る大会でしたね!」

(神奈川県ジュニアダブルス優勝・シングルスベスト4で初めて成績を残す)

全国レベルに急成長

TT:「中学に上がると、中2で全日本ジュニアに出場、中3で全中ベスト4と、一気に全国トップクラスの選手に登って行きました。急成長をした要因は何だったとお考えですか?」

田沼:「この頃にはテニスでプロ選手になりたいと思い始めていて、錦織選手を育成したことで知られる米沢コーチ(チームZIP、のちにチームヨネザワ)について練習をしていた成果だと思います。」

TT:「中2で初めての全国大会(2009年全日本ジュニアU14)、覚えていることは?」

田沼:「1回戦で中川くんに6-2 4-6 4-6ですよね?」

TT:「正解。スコアまでよく覚えてますね。」

田沼:「中川くんは全小でも準優勝でずっと上の選手でしたので、とにかく名前負けはしないようにと思って入りました。試合は自分の方が押せてファーストセットを取ったので行けると思ったんですけど・・悔しいという気持ち以外、どうやって負けたのか覚えてないですね。」

TT:「中3では全中でベスト4のほか、ITFジュニアにも初めて出場をしていますから、外国人選手とも対戦するようになりましたね。」

田沼:「全中は、関東の決勝でいい感触を掴んでいて、その調子で臨むことができました。ITFジュニアは、中2の年にキャンプでフロリダに行って、オレンジボールに出場しましたし、セルビアにも行って外国人と試合する経験はしていましたから、外国人との対戦は特別なものじゃなかったです。」

(中学時代にはアメリカやセルビア遠征で力をつける)

TT:「さて、高校時代に入ります。関東の出身なのに、関西の相生学院に進学しました。」

田沼:「相生は中3の夏に練習に参加したことがあって、その時にこの学校には厳しい上下関係がなさそうだと感じた事と、1つ上の先輩で活躍していた斉藤貴史くんや河内一真くんもいましたので、やって行くならここがいいと思って進学しました。入ったら思った通りでした。それと、監督の荒井先生が、テニスだけではなく人としての礼儀を教えてくれた事は大きかったと思います。大人になった今だからこそ、その時の教えは身に染みてありがたく思っています。」

TT:「初めての一人暮らしと厳しいテニスの練習は大変じゃなかったですか?」

田沼:「はい、全くの新生活でしたから、生活面でもいっぱいいっぱいで、気持ちに余裕はなかったですね。」

TT:「それでも全日本ジュニアU16でベスト16まで行きました。」

田沼:「全中の成績があったので、その勢いで優勝したい気持ちでは入りました。でも、ドローを見たら貴史くんがいるのが分かって、キツいな〜とは思ってました。」(3-6 7-5 2-6で惜敗)

(学年が上がるたびに戦績も上がって行った相生時代)

TT:「高2の全日本出場は逃しましたが、高3(2013年)ではU18でベスト8。年齢枠が上がるたびに戦績が伸びています。」

田沼:「越智くんに5-7 5-7ですよね。両セットとも先にブレークしていたんですけど・・越智くんは学年では1つ下ですけど関西ジュニアで優勝して入ってきていたので、簡単にはいかないことは分かっていました。でも2セットともひっくり返されたのは、さすがに悔しかったです。」

TT:「いずれにせよ、戦績も伸びて期待通りの高校生活だったんではないですか?」

田沼:「そうですね、同期の竹元(佑亮さん)、飯島(啓斗さん)、加藤(隆聖さん)と僕の四人で、いつも切磋琢磨するいい仲間でした。」

(切磋琢磨する仲間がいたから強くなれた)

ジュニアからプロ、そしてマイアミへ

TT:「充実した高校生活を終えて、進路を決定しないとなりません。最終的にはプロの道に進んだわけですが、葛藤などはありませんでしたか?」

田沼:「はい、色々と悩みました。みんながみんなプロになれる訳ではないですし、僕はいつも勝ってもいないし、全国で優勝してもいません。それでもいつかはプロとして活動することを前提にして、次の進路を考える中で、スカラシップをもらってアメリカの大学で力をつけてからプロになっていくということも、真剣に考えました。そのためにTOEFL(大学入学に必要な英語力検定試験)の勉強も始めていたんです。」

TT:「日本の大学は考えなかったですか?」

田沼:「お誘いがなかったというのが実際ですが、僕の中ではプロを目指すならよりハイレベルなアメリカの大学の方に興味がありましたので、アメリカの大学か、プロ転向するかの選択でした。」

TT:「結果的にプロ転向を決断したのはどういうことから?」

田沼:「プロ転向にあたって一番の問題は活動資金です。アメリカの大学はスカラシップがあるのでその点は心配ありません。そんな中で父は、僕がプロとして活動することを応援してくれていて、スポンサーしてくださる会社を探してくれました。資金的に目処が立つのであればいち早く競技生活に入った方がいいと考えて、高3の卒業をひかえた(2013年)11月にプロ転向を申請しました。」

(プロ転向後マイアミの移り住み、コロン・ヌネスコーチに師事)

TT:「プロ転向後、2年目までATPランキング獲得を待たないとなりませんでした。」

田沼:「プロ転向の申請後、すぐに(1990年全仏優勝の)アンドレス・ゴメスをサポートしていたコロン・ヌネスコーチを頼って、マイアミのテニスアカデミーを拠点にして活動を開始しました。最初の半年はひたすら中南米のクレーでの大会でした。南米選手の強烈なスピンとクレーに苦労して、後ろに下げられてはドロップで遊ばれてました。初めての南米で、不安だし、おまけに予選が4回戦までの大会も多くて全く勝ち上がれないしで、ほんと泣きそうでした。」

TT:「出た、泣き虫(笑)」

(南米遠征を一緒に回ったチリ人コーチ)

田沼:「南米遠征中は、コーチと一緒に大会の合間にやったバーベキューくらいしか楽しい思い出なかったです(笑)。でもマイアミに戻ると、コロンコーチとファミリーが、まるで家族のように接してくれたのが救いでした。」

(温かかった、コロンコーチ一家)

TT:「そんな苦労の後には報いがあるというものですね。2014年7月のメキシコITFフューチャーズで初ポイント。」

田沼:「はい、我慢をしながら組み立てていくクレーでの戦い方や、南米選手のスピンボールへの対応に自信がでてきていました。3週間のメキシコ大会で1・2週目は予選落ちでも手応えを感じていて、3週目にやっとポイントが取れてホッとしました。」

帰国、しかし成績は伸び悩む

TT:「2014年は年間ランク1146位、その後は日本に拠点を戻して活動を再開したようですね。」

田沼:「2015年の夏でスポンサー契約が終了しましたので、資金的にマイアミに滞在することが厳しくなって日本に戻りました。その後2017年まで甲府の石井テニスアカデミーにお世話になりました。その間で700~800位台が定位置のようになりましたが、昨年(2017年)の8月にルーマニアのクレー(Rumania F8~F12)で5週連続本戦一回戦負けの時期もあったりで、非常に厳しい状況でした。」

(石井テニスアカデミーで安定したストローク基盤を作る)

TT:「ノーポイントですから、それは厳しい。」

田沼:「相当落ち込みましたが、腐らずに、毎日しっかり練習はしていました。それでも何かを変えないと、と感じ始めていましたので、2018年から父の高校からの友人で、小さいころから僕をよく知ってくれている波多野コーチの楠クラブ(千葉県成田市)にお世話になることにしました。僕の飽きっぽい性格もよく分かっているので、とにかくしつこく言ってくれますし、幼い頃からの関係なので僕も何でも話せます。石井さんに学んだしっかりと安定したストロークの上に、攻めを加えるプレースタイルを取り組んでいます。さっき練習で見ていただいたような、基礎的ですけど攻めに転じる練習を、毎日毎日繰り返しています。最近色々なものが定着してきた感じがあって、試合の結果にも現れてきているんじゃないかと思っています。」

TT:「その結果と言える試合が、先日マレーシアでのフューチャーズ優勝ですね。」

(2018年7月 ITF Malaysia F2大会でITF初優勝)

田沼:「はい、そうですね。この前の週の香港ではベスト4でしたが、練習の成果を感じるようになっていました。コーチは現地には入れませんでしたけど、Live Streamで見てくれていて、マレーシアに向けてのアドバイスをしてくれました。マレーシアは準決勝が一番の山だったと思うんですが、ファイナルセット1-3で持っていかれそうなところでコーチがくれたアドバイスを改めて考えながら、1ポイント1ポイントやって行ったら勝つことができました。(7-6(2) 2-6 6-3)決勝戦は僕も経験が少ないので緊張しましたが、相手の方がはるかに緊張していて、楽に取ることができました。」(6-1 6-1で優勝)

世界100位を目指して

TT:「では、最後になりますが、テニス選手として、どういう存在でありたいですが?そして今後への抱負を聞かせてください。」

田沼:「まず一番最初に、今でもまだ親の支えがあって選手活動ができていますので、早く自立ができるランキングに持っていきたいと考えています。」

TT:「つまり100位以内ということですね。」

田沼:「はい、そういうことになります。プレイヤーとしては、自分のプレーを見て楽しんでもらえるような選手になりたいですね。モンフィスやキリオスなどは見ていて楽しいじゃないですか。僕も守るときは思いっきりスライドしてでも切り返し、攻めるときにも思い切りよくプレーして、見る人を楽しませられるように頑張ります!」

最後に一言をいただきました。

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写真提供:

 田沼武男さん

 田沼諒太選手

ご協力ありがとうございました。

聞き手:

 Tennis Tribe.JP 新免泰幸

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