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沼尻啓介

「自分らしく!」

· Players

これまでの選手インタビューの準備でジュニア時代を調べると、いたるところにトップジュニアとして出てくる「沼尻啓介」という名前。

しかし少なくともこの2年間は、西岡良仁選手、斉藤貴史選手と共催する「地域活性化プロジェクト」や「部活応援プロジェクト」など、競技外での活動でしか名前を見なくなっていました。

そんな中で聞こえてきた、2019年5月毎トー(毎日テニストーナメント)での優勝の報。

この選手に何があったのか、そしてかつてのトップジュニアは今、そして今後どうしていこうとしているのか。早速練習拠点のNJテニスクラブに向かいました。

そこにいたのは、美しいシングルハンドのフォームから攻撃的なテニスを見せ、プロとしてのテニスをしっかりと、そして明るく語る好青年でした。

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沼尻啓介(沼尻):「初めまして。試合に出てない僕にインタビューをしてくださるなんて驚きました。」

Tennis Tribe.JP(TT):「沼尻選手の名前はこれまでもたくさん聞いてきました・・・(と上の経緯を説明)。」

沼尻:「そういうことですね。『地域活性化プロジェクト』は、田舎生まれの僕と西岡と斉藤の3人が、地元ではプロのテニスに触れる機会がないって話になって、やるなら地域の貢献になるようにテニスイベントを考えてみようということで始めました。1回目は僕の地元の茨城、2回目が西岡の三重。今年は斉藤の石川でやる予定です。」

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斉藤貴史選手 沼尻啓介選手 西岡良仁選手)

TT:「素晴らしい取り組みだと思います。やっていくうちに地域貢献としての色々なアイデアも出てくるでしょうね。」

沼尻:「そうですね。第1回は収益から児童養護施設にスポンジボールとラケットのセットを贈りました。その上でもっと使ってもらえるように後からもう一度訪問して、ちょっとしたレッスンをしてきました。第2回では僕らが『テニスの王子様』やその前の世代の方は『エースをねらえ』でテニスに興味を持ったように、今の子たちなら『ベイビーステップ』だろうということで本をプレゼントしました。どうしたらテニスに興味を持ってくれるか、そこから地域の子どもたちがもっと生き生きするかを、いろんな角度から考えるいい機会になってます。」

TT:「石川での第3回も楽しみですね!」

「退場」でスタートしたテニス

TT:「それでは、沼尻選手のテニスのスタートから伺わせてください。」

沼尻:「見ての通り、両親がやってるこのテニスコート(NJテニスクラブ)から始まりました。3歳でラケットを握っていたらしいです。」

(沼尻選手のご両親は揃ってインターハイに出場するテニス選手。お爺さまはクレー射撃の幻のモスクワ・オリンピック日本代表選手。足腰を鍛えるにはテニスがいいと作ったコートがお父さまがテニスを始めるきっかけとのこと。血筋ですね。)

TT:「その血筋で3歳から英才教育・・」

沼尻:「いや、それが3歳で入ったキッズクラスでは泣いてばかりで、迷惑だと出て行かされたらしいです(笑)それでちゃんとテニスを始めたのは、小1でジュニアクラスに入ってからだと聞いてます。」

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(5歳の頃。まだ両手でラケットを振っていた)

TT:「『退場処分』ですか(笑)親がコーチというのが徒(あだ)と出ましたね(笑) 大会にはいつ頃から出始めましたか?」

沼尻:「小1でビギナーズカップみたいなのに出たのが最初だと思います。その頃はフォアもバックも力がなかったので、どっちも両手で打っていました。小2で初めてフォアを片手にしたんですけど、スライスで打ってたのを覚えています。なつかしいな〜(笑)」

TT:「今は両方とも美しい片手打ちです。片手のバックハンドいつ頃から?」

沼尻:「小3から小4に上がる頃だったと思います。その頃からベースライン上に立ってライジングやスイングボレーでネットにも出るプレーだったんですが、ネットプレーする人は片手だろう!という思い込みで、片手で打つようになりました(笑)」

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(「NJ」ファミリー)

NJの仲間に引っ張られ、フェデラーに導かれた小学生時代

TT:「小学生時代の活躍を確認しましたら、全日本ジュニアU12のダブルスを小5で3回戦、小6では第1シードでベスト4とあります。ダブルスで躍進しています。」

沼尻:「県でトップレベルにいる選手がNJに集まってきて、ペアにも恵まれて引き上げてもらった結果です。一つ上で槙(翔太郎)という選手がいて、彼は小4の時に(茨城)県大会で優勝する実力だったんです。 ちなみに槙との出会いは、彼に次いで第2シードだった選手に僕が5-6で負けた試合を見てたみたいで、試合後に今度一緒にダブルス出ないかって誘われたことからでした。」

TT:「どこに出会いがあるか分からんもんです。」

沼尻:「初めて組んだのは小3のピーナッツカップで、早生まれの中1のペアに67 57で負けて準優勝。これ自慢じゃないけどすごいと思うんです(ドヤ顔)。小4と小6も組んで優勝でした(どや顔 x 2)。槙にはいつもあーだこーだ言われても一緒に練習してきたので、本当に鍛えられました。」(小5は別の選手とペアで単複優勝、ダブルスは3連覇)

TT:「シングルスの実績には小6まで待たないとならないようです。」

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(茨城県ジュニアU12大会。槙選手(右)と)

沼尻:「小5で初めて関東大会に上がったんですが、その後の関東大会で5回連続1コケでした。でも、頭がおかしいのか、全国で優勝するって言って出ては1コケしてましたね(笑)」

TT:「それが、小6では全小で準優勝、全日本でもベスト4まで一気に駆け上がります。何か掴んだんですか?」

沼尻:「フェデラーです!」

TT:「???」

沼尻:「フェデラーが2006年AIGオープンで日本に来ましたよね。ぼく、大ファンで、エスコートキッズかレセプションパーティにジュニアが参加できる応募があって、応募ハガキを100枚送ったんです!目立つように角を折ったり蛍光ペンで縁取りしたり。投函の場所も分けて。そうしたら、当選したんです。レセプションパーティでフェデラーを連れてきてくれて、フェデラーモデルのラケットにサインしてもらいました!そのレセプション、勝ち残ってた大会を棄権して行きました(笑)その後からの関東大会は負けなくなったんです。なので、フェデラーの力かなって(笑)」

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(フェデラーからのパワーの源泉!)

西岡良仁・斉藤貴史との出会い

TT:「さて、思い出の多い小学校時代ですけど(笑)覚えている試合などありますか?」

沼尻:「西岡との試合ですね。小6の全国選抜から全小、全日本、全部西岡に負けてます。初対戦の時、当たる前に彼の練習を見ていたら、ものすごい厚いフォアのグリップだったので、短かくて低い球で勝てると思ったんです。そうしたら、あのグリップからストレートもきっちりコントロールしてくるし、ミスをしない。強い!って思いました。それから西岡には7連敗です(涙)」

TT:「そういう犠牲者は少なくなさそうですね・・」

沼尻:「あの頃から全国でトップを競っていたのが斉藤で、斉藤も西岡にいかに勝つかを考えて、全日本の時はずっと西岡の試合を見て研究してました。それくらい西岡に勝つことが僕らの年代の目標だったんですね。ところがその前に僕に当たって、でも僕の研究なんて何にもしていないわけで、西岡に当たる前に僕に負けてしまって茫然自失になっていたのをよーく覚えてます(笑)」

TT:「斉藤選手にインタビューする機会があったら、その点をよーく聞いておきます(笑)」

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(同年代の共通目標は、『打倒西岡(右)』。小6で北京へ初めての海外遠征)

天国と地獄の中・高時代

TT:「順風満帆で中学へ。この頃からはジュニアのナショナルメンバーとして活動するようになりますね。」

沼尻:「はい、ところがこのあたりで自分のプレーを崩してしまいました。」

TT:「怪我をしたとか?」

沼尻:「いえ、そうではないです。中2で西岡・斉藤と一緒にナショナルの5週間のヨーロッパ遠征に呼んでもらいました。コートはレッドクレーで、西岡も斉藤もあの通りスピンを使ってストロークをしっかり打ちます。僕はベースラインから下がらずに上がりっぱなをフラットに叩くスタイル。でもその5週の間でクレーで戦うには、しっかり後ろに下がってエッグボールを打つのが戦い方だというアドバイスをもらっても、全然ダメなんです。ラケットの先っぽでフレームショットしたり、ネットまで届かない球になったり。どうしても合わなくて、戻そう、修正しようとして、どんどんプレーを崩してしまいました。」

TT:「そんな短期間にも崩れてしまうんですね。」

沼尻:「あの頃は言われた通りに聞くばかりでした。今だから言えることですけど、自分でしっかり考えて、合わないと思うものは聞かないくらいじゃないといけなかったんですよね。」

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(ナショナルメンバーとして海外遠征)

TT:「それでも、中3での全中は見事にシングルスタイトルを獲得しました。」

沼尻:「その年は西岡がニック(ボロテリー・テニスアカデミー)に行って不在だったので、絶対優勝しないといけないと思ってましたので、プレーをなんとか戻してタイトルを取りましたし、メディアにも答えたのを覚えてますが、西岡不在なら自分がかたなきゃならないって思ってました。」

TT:「さて、時代は高校です。1年の時にジュニア・デビスカップでは西岡選手と組んだダブルスで全勝、ITFジュニア大会でも単複ともに好成績が目立ちます。」

沼尻:「でもそこにオーストラリアンオープンがないですよね。ポイントはあったんですけど、エントリーを忘れてしまったんです(汗)」

TT:「えぇ〜!ナショナルにも参加しているのに??」

沼尻:「僕の先例を受けて、翌年からは口すっぱく言われるようになったみたいです(笑)」

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(テニスの名門、湘工へ)

TT:「高校は、テニスの名門、湘工(湘南工科大学付属高校)へ進学しました。」

沼尻:「中学は茨城の並木中等教育という中高一貫校だったので、学業とテニスを両立させるならそのまま高校へ。でも僕はプロを目指していたので、湘工に行きました。でも高校の練習はそれまでのやり方と違うというのもあって、またプレーを崩してしまいました。今度は前よりも深刻でした。」

TT:「練習は難しいものですね。」

沼尻:「そうですね。でも湘工は練習を部活で行う『学校練習』と、外のテニスクラブで行う『クラブ練習』というのがあって、高2からは学校練習からクラブ練習に切り替えて、日大やパーム(インターナショナルテニスアカデミー)にお世話になっていました。」

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(NJで練習を積む、茨城県のトップジュニアたち)

TT:「ところが、高3でジュニアのトップを競う全日本ジュニアU18は、1回戦を前に棄権。何が?」

沼尻:「崩れたプレーを取り戻そうと、必要以上の練習をしたからだと思いますが、右手首の舟状骨(しゅうじょうこつ:親指の付け根にある骨)を骨折してしまいました。その年のインターハイ、最後の年ですから無理して出場していたんですけど、携帯を拾い上げるのも、最後は箸も持つのもできないくらいの痛みでした。結果はシングルスは準々決勝で06 06負け、ダブルスは棄権だけは避けたくて、両サイド両手で試合をして、準決勝で負けてしまいました。」

プロに行くために大学へ

TT:「波乱の高校時代を経てその後すぐにプロ転向かと思いましたらそうではないようです。」

沼尻:「大学に1年だけ行きました。高卒での転向は手首の怪我もあるので諦めて、一度しっかり治して、プレーも戻してからと考えて、プロになる準備ができたら大学を中退するつもりでいました。この考え方を認めてくださったのが日大でした。」

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(1年で中退した大学。普通の大学生の一面も見せる)

沼尻:「1年生の春関が怪我からの復帰第一戦で、インカレも出場して、自分のレベルも体の準備も思っていた以上に早く仕上がっていったので、1年生の12月で中退、2015年の春にプロに転向しました。」

TT:「本当に波乱万丈のプロまでの道。2度もプレーを崩して、何度もプロを諦めかけたりしたんでしょうね。」

沼尻:「それが不思議と諦めることはなかったです。高1の時に少しだけ頭をよぎったくらいで、それ以外は一度もなかったです。」

ガムシャラなテニス人生から学んだコト

TT:「プロになって今年で5年目になります。ここまでのところ、どうですか?」

沼尻:「最初の2年くらいはとにかくガムシャラにやりました。遠征に次ぐ遠征、勝っても負けても次に進むプロの生活です。」

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(がむしゃらに遠征を回ったプロになりたての頃)

TT :「プロ転向1年目にはクエートで大西(賢)選手と組んだダブルスで準優勝、2年目はシングルスでも準々決勝に上がるなど、着実に上がっているように見えます。」

沼尻:「でもその勢いも2年目までで、3年目に左肩の怪我と肺炎で休まざるを得ない状況になってしまいました。それとちょうどその頃から現実的になるところもありました。僕と同じ年代が社会のために仕事をしている人もいる中で、僕は海外に行ってテニスして、自分のためにやっているだけ。人のためになってないんじゃないかって思うようにもなってきたんです。自分がテニスをすることで人に勇気を与えられるべきなのに、そうなってないんじゃないかと。そうなると、コートにも出たくなくなってきて、出ても満たされない。でもプロだから試合に出ないといけない。そうやってどんどんストレスを溜めてしまって、胃炎、逆流性食道炎、胃腸炎も出てくるようになってしまいました。」

TT:「真面目な性格からストレスを感じてしまったんですね。」

沼尻:「自分を縛ってましたね。そんな風にしばらく悩みに悩んでいましたので、一度試合を休むことにして、2018年の夏以降は日本リーグのダブルス以外には試合から遠ざかっていました。」

TT:「それで最近の大会の記録がなかったんですね。」

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(NJは沼尻選手自身が植えた芝桜がお出迎え)

沼尻:「でもそうやって休んでじっくり自分と向き合うことで、『ストレスフリー』になるにはどうしたらいいかを考えるようになりました。勝った負けたはプロですから重要ですけど、僕は錦織選手のような舞台にはいません。それだけじゃなくて、誰かが喜んでくれるコトは何なのか、人のためになるコト、それはテニスじゃなくても何でもやろうって思いました。NJの周りに芝桜が咲いているんですが、あれば僕が植えたものです。クラブに来てくれる方に喜んでもらえるようにと思って。立教大学でのコーチのお誘いもいただいて、僕に期待されているコトがあるならやってみようと。地域活性化プロジェクトもテニスを通じて地域の方に喜んでもらえるコトならという思いです。」

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(立教大学でのコーチング)

TT:「プロテニスプレイヤーという職業が社会に何ができるのかという問いですね。」

沼尻:「こんな風に考えていく中で気がついたのは、これまで人生においてテニスを一番目にしていたので上手くいかなかったんだと。テニスを二番目以降にしたら、テニスが楽しくなって、以前よりもずっと集中できるようになってる自分に気がついたんです。」

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(視野が広がったことで、後輩へのアドバイスも的確に)

TT:「『ストレスフリー』の状態ですね。ナダルもことあるごとに言ってます。『テニスは単なるスポーツ。人生にはもっと重要なものがたくさんある』って。」

沼尻:「今はテニスが全然上手くいかなくても、自分自身を客観的に見られるようになって、前のようにイライラしなくなりました。何があっても冷静でいられるような気がします。」

TT:「先日(2019年5月)JOPの関西オープンで久々に大会に出られて、毎トーでは優勝。新しい沼尻プロの姿で帰ってこられたわけだ。」

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(実戦のコートに戻ってきた沼尻選手。そして実力を発揮し2戦目で優勝)

沼尻:「はい!テニス以外のことも含めて求められるコトは全力を尽くして何でも取り組みたいと思います。試合は、出ることでもっと多くを与えられるものが得られるんじゃないかって考えていますので、またチャレンジしていきたいと思います。」

一言をいただきました。

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沼尻選手への応援メッセージは、Facebookでお待ちしています。

最新情報は、Instagramからもチェックしてください。

写真提供:沼尻選手

ご協力ありがとうございました。

聞き手:

Tennis Tribe.JP 新免泰幸