日本リーグやJOP(国内)大会、そしてITFへ参戦する姿からプロ選手かと思いきや、実業団・アマチュアとして活動している選手は意外と多いものです。日本テニス界におけるプロ選手登録は単なる手続きで、世界を目指す選手にとってどれほどの意味を持つのかえを疑問に思う選手もいるのではないでしょうか。
今回取り上げる選手は、20歳の時に震える手で書いたプロ登録の申請書類を、郵便ポストに投函出来ずに破り捨てたのでした。それほど彼女にとっては大きな意味を持つものだったのです。そう、プロ選手登録は、多くの選手にとって人生を賭ける舞台への覚悟を示すものなのです。
1998年大阪生まれの22歳、テニススクールのレッスンで生活費と遠征費を捻出し、2021年5月、覚悟を胸にプロとして一歩を踏み出した尾関彩花選手に話を聞きました。
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=まずはプロ登録おめでとう!=
Tennis Tribe.JP(TT):前からてっきりプロとして活動していると思ってましたよ。22歳。年代から言えば大学卒業のタイミングですね。
尾関彩花選手(尾関):そうなんです!(笑)いろんなきっかけがあって、このタイミングでのプロ登録になりました。大阪の高校を卒業して東京に出てきてからの4年間はお爺ちゃんが支援してくれてたのですが、今年は大学卒業と同じ年ですし、いつまでも甘えられてられないと思ったのが一つのきっかけです。本当は20歳の時に一度(プロ登録の)申請書を書いたことがあるんです。でもその時はプロになる自信がまだありませんでした。それに私、人の目が気になるタイプで、この成績でプロになったんかって思われるんじゃないかって考えたり、ランキングが上の香菜子(長船香菜子プロ:所属するテニスユニバースの一歳年上で同じ関西出身の選手)もプロになっていないのに、自分がプロになるのはどうなのかなって思ったり。
TT:とても素直に話をしてくれてありがとうございます。
尾関:小さい時は夢を話すのがなにも恥ずかしくなかったのに、大人になって考え方がどんどん保守的になってきて、夢を口に出せなくなってきた感じもあるんです。でも最近になって、(テニス)ユニバースの仲間たちが毎日朝から夕方まで練習とトレーニングをして夕方からはコーチとして仕事をして、毎日目標に向かって頑張ってるのを改めて見た時に、今の自分は目標に向かってやり切れてないんじゃないか、一生懸命やれてないんじゃないかって思うようになったんです。中学の時から思い描いてきた「オリンピック選手になって、ひとりでも多くの人に夢を与えられるような選手になる」っていう夢を、今は口に出して目標を改めて目指そうって思って、今度は捨てずにちゃんとポストに入れました(笑)
TT:ところで関西のイントネーションが全く出ないですよね。
尾関:そうなんです!敬語で話そうとすると標準語になっちゃうんです(笑)
=ちょっとした反抗から書いた将来の夢=
TT:ではテニスを始めたきっかけから教えてください。
尾関:はい。(幼稚園の)年中の時に、テニススクールのチラシがポストに入っていて、体を動かすのが好きな私にお母さんが「行ってみやんか?(行ってみる?)」と聞いてくれたのがきっかけで、テニスがどういうものかよく分かってないのに喜んで体験に行ったのが始まりでした。
TT:家族のテニスに付いて行ったのがきっかけとかじゃないんですね。
尾関:私が始めてから、両親も弟もテニスを始めました。お母さんに聞くと、私が「ママと一緒がいい!」って言ったから隣のコートで始めてくれたみたいですけど(笑)
TT:テニスの虜になりました?
尾関:新しい友だちができるのは嬉しかったですね。あと、試合と縁日と大会が混ざったイベントがあったりして、それも楽しかったんです。
TT:「それは」って?(笑)
尾関:お父さんが雑誌で勉強したことをスクールから帰ってきた私にレッスンするんです。それがめっちゃ憂鬱で!(笑)
小学校に上がってからは学校の体育館で土日にダンスとバスケを習っていて、そっちの方が楽しかったし、小3からは育成のあるテニススクールに通うようになったんですけど、遊びの時間が制限されるのはすごく嫌でした。その頃は男子と「ドッチボールやろっ!」って言って遊ぶのが楽しかったんで!
「ドッチボールやろ!!」って確かに言いそうです(笑)
TT:小学生時代にはまだテニスに賭けるみたいなのはなかったようですね。
尾関:全く。(笑) バスケもダンスもチームでやるじゃないですか。みんなと何かをやるのが好きだったので、小4の時に二分の一成人式っていうのがあって、「将来はバスケットボールの選手になりたい」って書いたくらいです。
TT:では大会での成績はどんな具合だったのでしょう。
尾関:小6の時に大阪のサテライト大会で優勝したことはありましたけど、関西ジュニアにつながる大阪の大会では、予選決勝で負けるぐらいのレベルでした。ちなみに小6の時に優勝した試合は、お父さんが仕事だったので代わりにお母さんが来てくれて、お父さんに怒られることなく伸び伸びやれたのが勝因だったと思います(勝利者インタビュー口調 & 笑)
TT:そんなこと言っちゃってもいいんですか?(お父さん読むかもよ!)
尾関:大丈夫です(笑)小学校の時のテニスはお父さんに怒られなければいいやって思ってやってました。バスケットの選手になりたいって書いたのも、ちょっとした反抗だったのかもしれないですね。
=笑顔が絶えない中学時代から、もがき苦しんだ高校時代=
TT:中学からのテニスを教えてください。
尾関:小6の終わりに美原庭球塾(美原の森テニスガーデン)に移って、中1の時に島田コーチに出会いテニスが大好きになりました。そこから今まではお父さんに怒られなかったらいいと思ってたテニスが、もっと強くなりたい、もっともっと試合に勝ちたい、そしてテニスが楽しいと思えるようなったんです。
美原のコートが自分の居場所だった(左が島田コーチ)
TT:お父さんには耳が痛いかもしれないけど、どういう心境の変化だったんでしょう。
尾関:島田コーチとの出会いが大きかったと思います。コーチのレッスンはいつも明るい雰囲気で、上手くいかなかったり嫌なことがあっても、コーチが冗談を言って笑わせてくれました。それに仲間にも恵まれて、とにかく楽しい時間でした。 指導方針は教えてもらうというよりコーチがヒントをくれて、答えは自分で考えて見つけるというものだったので、人から何回も言われるより、自分で考えて気づけた方が覚えが良いですし、コーチの教えるスタイルが私に合ってたんだと思います。 それと、わたし的には「過大評価しすぎやろ!」って思うぐらい可能性を1番に信じてくれて、負けることが続いても、「これができたらすぐ勝てるようになる!」「優勝できる力は持っているから!」っていつも前向きなな言葉をかけてくれて、結果は残せてなくても自分に自信を持てるようになってきました。
全国への道を切り開いてくれた比嘉コーチ(中央)と
私が中2の時には比嘉(明人)コーチが美原の森に来て、週に2回現役のプロ選手に教えてもらえました。そして、同じ時期に同い年の全国レベルの選手も美原に来て一緒に練習できる環境になりました。そのお陰で、小学生の時は全小なんて知らなかったのに、中3のときにサマージュニアで優勝して、全中予選に初めて出場、そして初めての全国大会(全中)や中牟田(U-15全国選抜)で試合ができるまで進歩しました。
中学に入り一気に全国へ駆け上がっていった
TT:笑顔が絶えなかった中学から時間を進めて、高校のテニスを聞かせてください。
尾関:両親の大きな負担を考えると高校は公立に行く方がよかったんですが、美原の練習と両立するために私立の城南学園に行かせてくれました。城南は私と同じように他のクラブと両立させる生徒が集まっていて、上杉兄弟(哲平選手と海斗選手)も行ってたコ・ス・パの選手もたくさんいました。でも、中学までは楽しかった学校生活とテニスが高校では馴染めなかったんです。学校生活は下校後、美原に行って練習することを楽しみに毎日乗り切っていた感じだったので、部活があって美原に行けない日は朝からものすごく憂鬱でした。 学校にはお腹が痛いって言って早退して、美原に行って練習していたこともありました(笑)
TT:もがいた高校時代といえそうですね。
尾関:そうですね、振り返ると高校生の時は色々な葛藤があり、ずっともがいていた気がします。
韓国遠征にも選抜されるが、その自信が仇(あだ)となることも
尾関:高3では本当に笑えない2週間を過ごした時もありました。大阪総体でシングルス優勝したり、インターハイの大阪予選でも優勝しましたし、大阪ジュニアの1回戦で2-6 0-30から8-6に逆転して勝ち進んで優勝した大会もありました。大阪から関西ジュニアに進んで、一回戦はそれまで何度も試合していて、直前の大会でも8-1で勝っていた選手でした。勝てるだろうってたかを括って試合していたら負けてしまったんですね。大阪の強化メンバーとして韓国遠征にも連れて行ってもらえた奢りだったり、逆転したり優勝したりした自信だったり、何度も勝った相手っていう油断があったんでしょうね。その時は美原のコートに立っても2週間くらい笑顔になれなかったです。コーチたちにも心配されました(苦笑)
高校時代は成績は残すものの、笑顔は多くはなかった
TT:なんだか闇に覆われた高校時代くらいに聞こえてきますが、何か光はありませんでしたか?
尾関:そうですね、同期のライバルの存在かなって思います。1年から一緒の2人は雲の上のような存在だったのが、3年の時に勝てたのは、自分の成長を感じた時だったと思います。
=夢を胸に東京へ=
TT:高校を卒業後はテニスユニバースに就職しました。大学も選択肢にあったのではないかと思いますが、進路についてはどのように考えたのでしょう。
尾関:実ははじめは大学に行くことを考えていました。特に亜細亜大学の堀内監督には声を掛けてくださっていて、合宿にも参加させていただいてました。ただ東京に出るのに抵抗もあったので、現実的には関大(関西大学)かな?とも思っていました。そんな時にテニスユニバースが東京にチームを結成して、試合も回れる環境を作るという話で、美原の流れもあったので、お誘いを受けました。
送り出してくれた美原の仲間たち
TT:学生で関西に留まるか、プロで上京するかの選択肢ということですね。
尾関:私にとってはプロになるというより、試合に出たいというのが頭にありました。迷っている私にお爺ちゃんは、大学に行って特に勉強したいことがないなら大学に行ったと思って支援するから東京に行っておいでと、背中を押されて上京しました。
=挫折と覚悟=
TT:2017年に上京、試合もジュニアでなく、ITF大会に出るようになりました。記録によると、2017年は6月にルーマニアのブカレストから5大会、国内でもJOP大会に多く参戦したようです。JOPでは3月にアサヒ緑健大会で準優勝、ダブルスは優勝。ITFはシングルスでの予選突破はならず、ダブルスでは惜しい試合も多いのですが、本戦2回戦(準々決勝)に1度コマを進めてます。18歳で経験する大人の世界、どうでした。
18歳、初めての海外でのITFプロ大会はルーマニア
尾関:ジュニアの時には打ったら決まっていたボールが返ってくることに、ジュニアとの違いを大きく感じました。大会数はやはり資金面が苦しくて、上京した年と次の年も海外は1−2回行くのが精一杯でしたから、ポイントもなかなか稼げなくて、厳しい世界だなって痛感しましたね。結局国内のJOP大会を中心にせざるをえませんでした。
TT:テニスユニバースの一員として1年目から日本リーグでも活躍でしたね。
尾関:小さい時のバスケとダンスや、インターハイの団体戦でもそうでしたけど、誰かのために何かをやる時にいつも以上に力を発揮できる気がします。実は日本リーグのファーストステージの1ヶ月前にお母さんから「癌の手術を終えたよ」って連絡がありました。手術の前だと私が動揺すると思って、手術後に連絡をくれたのです。でも色々心配になって、2週間ぐらいテニスに集中できませんでした。 大阪に帰ることも考えましたがお母さんファーストステージは応援に行けると言ってくれたので、そこで活躍している姿を見せて少しでも元気になってもらえるように、今の私にできることを頑張ろう!と気持ちを切り替えて練習に集中しました。 そして結果的に出場した試合は全て勝つことができたので、お母さんも喜んで元気にしてあげれたかなって思います。
お母さんのため懸命に戦った日本リーグ
TT:上京3年目、2019年の記録を確認しますと、ITF大会に日本開催大会を含めて出場が見つけられませんでした。怪我をしたとか、何かありましたか?
尾関:怪我はしていません。この年は、迷いに迷っていた一年だったと思います。国内のITF大会は最初から出なかったわけではなくてエントリーしてもカットラインが高くて出られなかったか、JOP大会と被る日程で少しでも勝ち上がれるJOPを選んだと思います。海外のITFは、年に2回くらいしか遠征に出られないようだとポイントも稼げないので、遠征は意味ないなって考えてた頃でした。色々あって日本リーグにも出なかった年で、プロ登録も申請書を破り捨てたりして、思い描いていた選手生活と違う現実を受け止めきれなくて苦しんだ年だったと思います。
TT:そして2020年。テニス選手みんなが苦しい1年になってしまいました。
尾関:はい。でも私には色々と考え直せる時間になりました。コロナの中で試合だけじゃなくて練習すらできないので選手活動を止めてしまった近い年の選手もいます。テニスをできるのは当たり前のことじゃない。自分はどんなテニス人生を送りたいのか、オリンピックに出て希望を与える選手になる目標はどうするんだとか。アマチュアで活動している選手がYouTubeでスポンサーをとって活動費に充てているのを知ったり。動いているひとは動いている。高校卒業前の1月に全豪オープンに観戦に行った時のことと、お祭りみたいな会場でここを目指したいと夢見たことを思い出したり。
考え直せる時間があったことで、今度は覚悟を持ってやり切ろうって思いました。
関西出身で同世代の長船香菜子プロと互いに高め合う
=プロとして・・英語がんばります!=
TT:そして、今年のプロ登録にも繋がっているんですね。さて、プロになりました。この後、何に取り組んでいきますか?
尾関:海外を多く回るので、英語を勉強したいです!私全くだめで。お父さんの職業は何って聞かれて、
ピーポーピーポーゴーホスピタル
って言っちゃったくらいなので(笑)
読者のみなさん、この職業、分かりますか??
詳しくは会場で尾関選手に会ったら聞いてみてください(笑)
TT:最後に、プレースタイルを聞かせてください。練習を拝見すると、ブンブンとラケットを振り回すのが印象的でした!
尾関:テイクバックが大きいですよね!オムニコートで育ったので、テイクバックを大きく取るフォームになりました。スタイルは、スピンをたくさん掛けることかなと思います。(特に日本の)女子はフラットでスピードのあるボールを打つ選手が多いと思いますけど、私はスピン系でかなりラケットを大きく振りますね。今日(取材当日はかつてジュニアITFを回った男子とヒッティングしてもらいました)はボールが高く跳ねて来たので、私には打ちやすいボールでした。女子のフラットで跳ねないボールはスピンをかけにくいですから。
TT:海外、特にヨーロッパに行ったら、尾関選手と同じようなスタイルの選手がたくさんいますから、どんどん出ていきましょうね!
尾関:はい!海外を飛び回れるように、まずは国内で結果を残してスポンサー様を見つけられるように頑張ります!!
=彩花の一言=