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リュー理沙マリー 

今を楽しむ!

Tribe Pickup #67

· Players

姓はフランス語圏のカナダ出身のお父さまの名前でRioux。フランス語の最後のxは発音しない。

名は理沙マリー。マリーをミドルネームにしようとしたが日本の氏名にミドルネームがないためLisa-Marieと続けてひとつの名前に。

本人は「理沙」と呼んでほしいといいます。

幼少からお父さんと築いてきたテニスが正しかったこと証明するため、そして大好きな故郷沖縄の誇りを胸に2021年プロテニスプレイヤーとなった、リュー理沙マリー選手にお話を伺いました。

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リュー理沙マリー選手

1997年5月1日沖縄県生まれ

=野望=

TennisTribe.JP(TT):沖縄出身のプロテニス選手は多くはないですよね?

リュー理沙マリー選手(理沙):まだ少ないですね。でも最近は私がいた沖尚(沖縄尚学高校)もテニスに力を入れていていますし、プロの宮村美紀さんも沖縄を拠点に活動されたりしてますから、沖縄からの選手はこれから続いてくれると思います!

TT:では理沙さんはどうテニスに出会って、ここまで成長してきたのかを紐解いていきましょう。

理沙:元々お父さんとお母さんはテニスをきっかけに出会ったようで、私には2つ上のお兄ちゃんがいますけど、兄妹に「野望」を持っていたようなんです(笑)

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TT:野望??

理沙:テニスのプロにする野望です。お兄ちゃんとテニスを始めた3歳の時から。

TT:3歳からプロに向けた野望のスタートですか!

理沙:週1−2回は地元のクラブでレッスンを受けて、それ以外は全部お父さんとの練習で、週7日テニス漬けの生活でした。

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テニスを始めた頃から週7日の練習は続いた

TT:友だちと遊んだり習い事はしませんでした?

理沙:放課後に30分くらいしか遊べませんでした。テニス以外では新体操をやってました。でもお兄ちゃんが中学に上がる時にテニスをやめちゃったので、野望はお兄ちゃんの分も私に向けられて、テニスだけに絞る生活になりました。

=テニスを受け入れる=

TT:では、テニスはイヤイヤやらされている感じだったのでしょうか?

理沙:やらされている感じではなかったですけど、放課後や休みの日に遊ぶふつうの生活はしたいなって思ってはいました。それでもテニススクールにも友だちは出来たし、試合に勝てるようになってからは楽しさも増えたので、生活の一部になった感じで受け入れていましたね。

TT:小学校時代に思い出に残っている試合や大会はありますか?

理沙:キッズテニスカップという大会で、優勝するとオーストラリアに遠征してグランドスラムも見られるというのがあったんです。この大会で優勝してオーストラリアに行ってきました。自分で初めて勝ち取ったご褒美だったので、一番の思い出になりましたし、オーストラリアンオープンはそれまでテレビの世界だと思ってたのを目の前にして、いつかここに出てみたいって思うようにもなりました。

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キッズテニスカップでオーストラリア遠征を勝ち取った

TT:中学に上がってからは、全日本ジュニアやITFジュニアにも出場するようになって、ずいぶん大会のレベルと幅が広がったように見受けられます。多くの地方選手は全国から先の世界大会はなかなか視野に入ってこないという話を聞きますが、理沙さんはどうでしたか?

理沙:お父さんは英語で調べることに不自由なかったからか、視野が広かったです。とにかく色々と研究していたので、ITFジュニアも誰かに言われるわけでもなく自分で見つけてきたみたいです。日本国内にいるだけでは上を目指せない、海外に目を向けようって、中学の頃から言っていました。

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2012年、中学生時代に出場したITFジュニアフィリピン(マニラ)大会

TT:地方出身の選手の多くは高校から関東や関西に出てきますが、理沙さんは沖縄尚学高校へ行きました。

理沙:お父さんとしては高校からは海外のアカデミーに行って欲しかったみたいです。でも私は沖縄を出るのがいやでしたし、学校の寮に入って学校で練習したかったんです。ハーフの私はただでさえ目立ってしまうので、高校ではごくふつうの、高校生らしい生活もしたかった。海外のアカデミーではなく沖尚にいくことを許してくれたのは、本当に嬉しかったです。

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高校は地元沖縄を選択。ふつうの高校生活を送りたかった。

<ジュニア時代の主な戦績>

全国大会は全日本ジュニアに2009年U12で初出場、2011年(U14)、2012年(U16)と全国の切符を手にし、2013年はU16でベスト4。同年全国選抜で準優勝。2015年、高校最後の年にはインターハイダブルス優勝。ITFジュニアでは2011年の韓国でのITFジュニアに初出場、2015年17歳でグレード4優勝と、年代毎に着実に戦績を積み重ねます。

TT:高校では思い描いた生活を送れましたか?

理沙:はい、これまでで一番の3年間でした。それまでお父さんとばかり遠征を回っていましたが、高校ではチームで動くし、チームでも戦えるのは何よりも楽しい経験でした。

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=お父さんと一緒に作り上げたショット=

TT:テニスをずっとお父さんとやってきて、これは一緒に作り上げてきたっていうものってありますか?

理沙:ドロップショットだと思います。マッチポイントを取られたところからドロップショットで凌いで勝った試合もあったりします。体が勝手に動くくらい、ドロップショットは自分のテニスの大事な一部です。流れが悪い時に使って変えたり、自分のペースに持っていきたい時などにも使えるようにと、お父さんとは毎日必ず練習しました。

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TT:お父さんは本当に研究熱心だ。

理沙:でもお父さんは打ち方は教えないんです。「ここに打て!入れろ!」ってそれだけ。どうしたらそこに打てるか、そこに入れられるかは自分で考えて自分で打ち方を工夫します。私「やる気のない打ち方」って言われることあるんですけど(笑)、自分で身につけた打ち方なんです。

TT:ちょっとわかる(笑)

理沙:あと、サーブリターンも「理沙の武器だ!」って毎日8カゴも練習してました。手に持つ買い物カゴじゃなくて、スーパーでガラガラ押す大きなカートで8カゴもリターンする練習を繰り返していました。そのお陰で、今もリターンは自信を持ってますし、相手のリズムを崩す武器になってると思います!

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=悲喜交交のアメリカ生活=

TT:話は前後しますが、お父さんの野望である「プロテニス選手になる」ことについて、理沙さん自身はどう考えていましたか?

理沙:テニスは自分の生活の一部だったって言いましたけど、プロになるのも同じようにいつかはなるものだって考えていました。特に小6で行ったオーストラリアの時には思いは固まっていた気がします。沖尚に上がってからも親からは進級の時期になるとプロになるかって聞かれていました。でも、高校の時には沖尚の生活をやめてプロとしてひとりで世界を回る生活にはまだ入りたくないって思ってました。それに高校3年に上がる前から、アメリカの大学に行きたい、行こうって決めてたんです。

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渡米を封じる沖縄の地元紙

TT:それはアメリカの大学に行くことがプロへの近道と考えたから?

理沙:そういう考えもありました。日本の大学だと対戦相手が高校の時と変わらないかなって思いもあったりしましたし。でも一番の理由は、英語をちゃんと話せるようになりたかったんです(笑) 

TT:英語のため??

理沙:私、ハーフなのに英語をちゃんと話せないのがイヤで(笑)ふだんお父さんとは英語で話すんですけど、日常会話程度で難しい話がちゃんと出来るわけじゃなかったから。奨学金でアメリカの大学にいける話を聞いて、そういう方法があるのかと考えるようになりました。

TT:大学はオクラホマ州立大学を出られたと思いますが、アメリカに渡った時は違う大学だったようですね。

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ミシシッピ州立大学で渡米後の1年間を過ごす。

理沙:はい、ミシシッピー州立大学です。ITFジュニアでのランクも、英語の成績も不足していたので、最初に行ける大学は限られてました。ミシシッピーを選んだのは、とても優秀な台湾人のチームメイトがいたからで、彼女と一緒にテニスができるならと決断しました。でも当たり前ですけど先に卒業しますよね。彼女が抜けた後に、OSU(オクラホマ州立大学)からトランスファー(転校)のオファーをいただけたので移ることにしました。

TT:奨学生の転校もありなんですね。

理沙:はい、ありますね。でもどこでそうなってしまったか分からないんですけど、ミシシッピからNCAAに対して1年間のリストリクション(転校先大学での出場停止)の申請をかけられてしまいました。

TT:そんなことがあるとは。出場停止になると、1年間を棒に振ることになりますよね。

理沙:そうなんです。トランスファーした後にリストリクションを掛けられたので、OSUのチームにも迷惑を掛けてしまいました。

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OSUではリストリクション中にも関わらずベンチコーチとして試合に参加させてくれた。

TT:ちょっと暗い話になっちゃいましたね。気分を変えて、アメリカの大学でテニスをするということは、どういうものなのかを教えてもらえますか?

理沙:まず思ったよりずっと勉強が大変でした。成績を取らないと試合に出られません。かと言って勉強ばかりしていてもみんなハイレベルなのでテニスがついていけなくなります。ずっと気を抜けない状態でした。

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TT:本当の意味で文武両道ですね。自分に厳しくないとやっていけなさそう。

理沙:トレーニングプログラムもしっかりしているので、かなりフィジカルは強くなりました。フィジカルが上がったことでいいポジションに入れるようになって、攻撃も守備も格段に上がったと思います。シングルス1で出られるまでになりましたし、大変でしたけど本当に行ってよかったなって思っています。

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文武両道の米国での大学生活。OSUではシングルス1まで上り詰めた。

=テニスをやめるために帰国・・=

TT:ところで、年で数えてみると大学卒業は2019年。大学卒業後にプロ転向と思っていましたが、1年の空きがあるようです。

理沙:はい、リストリクションが掛かっていた1年分、大学に残る事ができるようになりました(さらに新型コロナの分でもう1年)。その期間を使って大学院に行ってたんです。

TT:そうでしたか。でも1年で大学院を終えられたわけですか?

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理沙:いえ、それが、バーンアウトして途中で諦めてしまったんです。勉強は大学院で一層厳しくなって、テニスも気の抜けない状態が続いていました。そうしたらいつの間にか、お腹が空かなくなったり、嬉しいとか悲しいとか感じない感情がフラットな状態になってしまったんです。すぐ治るだろうって思っても変わらなくて、3ヶ月も続きました。最後には頭も回らない状態になってしまって。。勉強をストップして、そうなると試合にも出られなくなってしまいました。大学院は諦めて、日本に帰って治すことになったんです。

TT:想像できない大きさのプレッシャーがあったんでしょうね。それで沖縄に戻ってプロへの準備をしていたというわけですね。

理沙:いいえ、大学院をやめて帰るときには、テニスもやめるつもりでいたんです。お父さんにもそれを伝えました。きっと怒られるだろうなって思ってたら「分かった」って言ってくれて。

TT:お父さんの気持ちを思うと、胸が痛みます。

=故郷沖縄の声援を背に=

理沙:アメリカから離れるときにはテニスをやめるつもりでしたけど、沖縄に帰ると周りからは「プロにならないの?」という声や、お母さんからは「もったいない」って言われました。プロを目指すのは今しかできないことだし、沖縄の人たちの応援もあるし、何より両親は私がプロになることを夢見て来ました。両親のためにももう一度頑張ってみようと思い直してコートに戻って、今年(2021年)プロとして登録をしました。

TT:お父さんの気持ちばかり言ってしまいますが、嬉しかったろうな。

理沙:プロとして成績を出して、お父さんと一緒に毎日やってきたのは正しい事だったんだって、証明したいですね。

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TT:ここまでのITFプロツアーでの戦績を振り返ると、2018年の甲府大会シングルスで予選から勝ち上がって準優勝が最高成績(決勝は土居美咲選手)。2019年にキャリアハイの561位。今年(2021年)にダブルスでITF初めての優勝。

理沙:ITFの甲府は、山梨の友人の家の滞在させてもらって、プレッシャーもないとてもリラックスした心の軽い状態で臨めた大会でした。決勝の土居選手には歯が立ちませんでしたけど、こうやって戦えるんだって自信をつけた大会でした。

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TT:最後に、多くは高卒の10代または大卒の22歳でプロになるのに対して、24歳でのプロ転向。今後の抱負を聞かせてください。

理沙:ランキングに縛られてプレッシャーを感じないようにして、目の前の試合に全力を尽くしていきます。たくさん試合をこなしていけば、結果はあとから付いてくるって信じています。そして、世界も目指しますけど、大きな目標として、全日本選手権のシングルスで勝ちたいです。

TT:ドロップショットとリターンを武器にね。

理沙:はい、そうですね、お父さんと作ってきたテニスで勝ち進みたいです!

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お父さんとの数少ない1枚の写真

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理沙選手に一言をいただきました。

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=リュー理沙マリー選手の情報とメッセージはこちら=

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=写真提供=

リュー理沙マリー 選手

てにるーむさん

=聞き手=

新免泰幸